続けていれば道は必ず開ける。
自身は先月からある挑戦をしている。アジア野球連盟に所属している24ヵ国に対して順番に連絡を取り、その国の現状やビジョンなどを聞こうとしている。現在、4ヵ国とコンタクトに成功した。これもアジア野球情報を日本に届けるためだ。
今後は不定期になるが、彼らから聞いた内容を紹介していく。今回はカンボジアだ。最近は毎日のようにFacebookページを更新しており、連盟の認知度を上げようと努力している。自身が連絡を取ってみるとなんとトップの方から直々にメッセージが来たのだ。写真などはご本人の許可を得ているので載せていく。
カンボジア野球連盟の会長を務めるのはジョー・クックさん(45)だ。カンボジアで生まれたが、幼少時代は数多くの戦争を経験し、12歳のときにアメリカへ避難した経験を持つ。現地では日本式のステーキハウスなどでシェフとして働いていた。野球と出会ったのはたまたま家の近くで行われていた試合を観戦したことから始まる。「当初はどんなスポーツかわからなかったがそれが野球だった」と振り返る。移住してから20年が経った02年5月、既に亡くなったと思っていた姉妹の生存を知り帰国した。
写真:カンボジア野球連盟のトップを務めるジョー・クックさん(中央)
カンボジアで彼の甥と姪の学校を訪れたとき「子どもたちのために何かできないものか」と考えた際に野球を教えることを思いついたという。しかし、それまで誰もこのスポーツを見たことも聞いたこともない状況でどのように教えるべきか悩んだ。彼は帰国の際に既に野球道具を持っていたため、調達には苦労しなかった。
決意した数日後、国内にある学校の子供たちを集めて持っていた道具をプレゼントした。今まで見たことがない「手袋」や「棒」に興味深々でとても喜んでいた。その時、クックさんは自分が知っているスポーツで子どもを笑顔にできるという喜びを感じていたそうだ。
02年11月、道具調達のために海外に行っていたクックさんが帰国した。大量のグラブやバットを持ち込んでほかの学校や子供たちに寄付するため奔走した。そして正式に国内の子どもたちに野球を教えたのが02年11月26日。カンボジア野球が産声をあげた歴史的1日となった。基本の動作である「投げる」「打つ」「走る」を教え、のみこみが早い「未来のスター達」は常に笑顔だった。
彼の野望はこれだけでは終わらなかった。首都のプノンペンから約109キロ西に離れたバリボという小さな村に5ヶ月をかけて球場を建設したり、代表チームまで結成した。そのメンバーの中には甥も入っていたのだ。ここまでは順調かと思われたが決してそうではなかった。
チームの運営や道具を調達するために政府からの援助が必要だったが、あまり良い印象は持たれなかった。90年代からサッカーが成長してきたことで力を入れていたこともあり、野球は二の次だったのだ。直接、政府関係者から「やめたほうがいい」とまで言われた。国全体では興味なしでも彼はアメリカ時代のつながりを活用してポケットマネーで存続させていた。
こうした努力が実を結び、代表チームがベトナムやマレーシアとの試合に勝利したことで政府の考えを変えた。新たな球場を建設するための土地を提供されたのだ。快挙が国民の心をも動かし、少しずつではあるが野球を観る人が増えていった。現在ではケーブルテレビを通じてメジャーリーグの試合を見ることができる。クックさんは田中将大の大ファンでよく子供たちにその凄さを教えているのだという。
アジア野球連盟には 07年に、世界野球ソフトボール連盟には09年に加入した。これで世界的にも野球が存在していることを知らせる絶好の機会にはなっているが、残念ながら日本では全くと言っていいほど情報が入ってこない。現在の夢は23年に開催予定であるスポーツの国際大会「東南アジアゲーム(SEA Games)」のホスト国になることだという。
カンボジア野球の父と言うべき、ジョー・クックさん。彼の野望はまだまだ終わらない。いつか侍ジャパンと対戦できる日を目標に日々、活動を続けている。次回は自身が彼に聞いた日本野球の印象などを紹介する。
以下がカンボジア野球連盟のFacebookページだ。基本的にカンボジア語か英語だが、写真でもよいので1度見てほしい。
https://www.facebook.com/cambodiabaseball/?fref=ts