人生の分岐点に古葉竹識監督の存在

人生の分岐点に古葉竹識監督の存在

□名将がまた1人

 11月16日、筆者にとってこの話題しかない。広島東洋カープと横浜大洋ホエールズの監督を歴任した古葉竹識氏の訃報が飛び込んできた。現役時代は広島の主力として盗塁王やベストナインに輝いているが、広島黄金時代の名将、大洋では後の主力となる選手の基礎固めをしたという意味で指導者のイメージが強い。

 こうした経歴を知っているものの、筆者にとっては東京国際大学野球部監督の方がイメージが強い。なぜなら、古葉監督が同大で指揮を執っていたときに在学していたからだ。何度かお会いしてお話したこともあるが、特別深い関係という訳ではない。

 それでも筆者にとっては古葉監督は人生の分岐点という意味で、とても大きな存在だった方だ。15時頃に訃報を知ってから無気力であり、時間が経つごとに悲しみが深くなっている。大学当時、背番号「50」のユニフォーム姿は今でも鮮明に覚えている。

□運命を変えた高2の秋

 2007年秋、当時の筆者は高校2年生で修学旅行が終わり、そろそろ進路のことを考えようとしていたときだった。そんなある日、ふと手にした新聞のスポーツ欄を見ると古葉監督が2008年から東京国際大の監督に就任するという記事が載っていた。本来ならばもっと前から監督を務める予定だったが、NPB球団OBのリーグ戦に参加していた影響で就任が遅れたという。

 高2当時の時点で既に古葉監督のことを知っていた。筆者は小学生まで選手としてプレーしていたが、中学生になると「観る専」になった。選手を辞めた後はNPBの歴史に興味を持ち、各球団の球団史の本を集めて読み込んでいた。その過程で古葉監督に対して「広島初優勝時の監督」のイメージを持っていた。

 筆者は高校から英語の専門学科にいたため、大学でも引き続き英語を学びたい希望を持っていた。しかし、地元の青森県には英語専門学科がないことから県外に行くことが決まった。その中で野球好きな気持ちを捨てきれず、大学を選ぶ基準は「英語専門学科がある」「NPB球団の本拠地となっている都道府県」に決めた。

 この2点で大学を探していたところに、古葉監督の東京国際大行きのニュースだ。この知らせを知って「これはもう行くしかない」と思った。先述の大学を選ぶ条件のどちらにも該当しており、なおかつNPBで名将と呼ばれる人物の采配を間近で見ることができるのだ。この気持ちになったとき、10ほどあった大学候補はすべて消えていた。

 大学を決めた。今となってはマネージャーや主務等で野球部に入ればよかったと思っているが、当時は「野球部に入る訳ではなく、古葉監督の采配を同じ大学の学生として間近で見たい」という気持ちが強く、この目標を達成することしか考えていなかった。その後の入学試験の面接では中日ドラゴンズファンの教授が担当だったこともあり、古葉監督の話題を出すと盛り上がった記憶もある。

□今の自分がある

 東京国際大は今では駅伝の大学としてのイメージがある。筆者が入学した当時はちょうど、大学として運動部の強化に力を入れ始めて2年目のときだった。ちなみにその運動部強化のために招かれた元プロ監督第1号が古葉監督だった。東京新大学野球連盟に所属する同大。リーグ戦では2位、もしくは3位が多く、創価大学と流通経済大学に苦戦を強いられていた。

 そして迎えた2011年。伊藤和雄投手がリーグ戦で7勝を挙げる活躍で創部46年で初優勝、全日本大学野球選手権への出場が決まった。初出場でありながら全国の強豪校を次々と破って、最後は慶応義塾大学に敗戦もベスト4という成績を残した。筆者も神宮球場に行き、応援していた。東京国際大はこの時を最後に全国には行けていない。

 2012年6月12日、大学で特別講義があった。筆者は1番前の席に座り、話の1つ1つに対してまるで鶏のようにうなずいていた。その後の古葉監督は2015年から総監督に。その間、筆者は大学を卒業して専門学校を経由し「アジア野球ライター」として野球旅を始めた。

 卒業後に1度、リーグ戦の試合終了後に古葉監督ご本人にお会いして、古葉監督をきっかけに大学進学を決めたことや「アジア野球ライター」として活動していることを伝えた。ユニフォームを着れば厳しい監督として知られているが、とても優しい方であり、その人柄に惹かれていた。

 筆者は野球部出身ではない。しかし、古葉監督という存在がなければ東京国際大に行くことはなく、今とは違った人生を歩んでいるに違いない。そのような意味でも人生の分岐点には古葉監督がおり、感謝してもしきれないほどだ。今回の訃報を知り、今でもとても悲しい。感謝の気持ちを忘れず、今後も道を歩んでいきたい。

 古葉監督、ありがとうございました!

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